No.13
豪商・七崎屋半兵衛の没落
その卓越した商才で富と権力をほしいままにした豪商。
しかし飢饉続きで苦しむ藩に睨まれ、すべてを失ってしまう。
おごりによる自滅、だけではない八戸藩時代のエピソード。
滝尻侑貴
取材・文 松原新一
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「諺にも七半の八戸か、八戸の七半かと言えり」
そううたわれたのは、八戸藩の豪商・松橋半兵衛である。生家が豊崎町七崎にあり、屋号は七崎屋。七崎屋半兵衛、略して七半と呼ばれることもあった。七崎屋は藩一の大富豪・御用商人で、文化・文政期は、藩の財政を肩代わりするほどだった。この七崎屋半兵衛について、八戸市立博物館の滝尻侑貴学芸員にお話をうかがった。
そもそも、七崎屋半兵衛が藩一の御用商人に上りつめたのは、自分の店で働く手代や番頭を大事にしたことにある。真面目に勤める者には資金を出して諸国を歴遊させ、無事に年季奉公を終えた者には、家や田畑、資金をあたえ、別家を名乗ることを許し優遇した。このような人材育成が優秀な人材を生み、繁栄をもたらしたのである。折しも天明・文化年間、江戸はグルメブームに沸いていた。うなぎの蒲焼、天ぷら、にぎり寿司、初物食いなどだ。藩の特産品である鰯締油(いわししめあぶら)、正油の原料の大豆などは、高値で取り引きできた。
30歳を過ぎたばかりの半兵衛は、すでに別荘を二、三か所持ち、藩主の約10倍ほどの財産持ちと噂されていた。ご当地の産物の売買を掌中に握り、他藩との物資の取り引きで利益を得るなど、商売は手広くなっていった。半兵衛の一族も、藩主への献金により上級藩士並みの扱いを受けるなど、権勢を誇っていた。
「藩財政は苦しいが、七崎屋の勢いは止まらず、権勢を借り、藩政をも動かす」と噂されるようになる。碁や将棋の催し、菊見(半兵衛が江戸から持ち帰って広めたとされる奥州菊で、現在の菊まつりにあたるか)などに名をかりて、藩の重要な役職者に対し響応が盛んに行われた。七崎屋半兵衛の勢いは、わらべうたに「三菱の紋恐るべきか、向かい鶴紋恐るべきか」と唄われるくらいであった。
当時の藩の財政は大飢饉のため逼迫(ひっぱく)し、8代藩主信真は藩内に倹約令を出し、野村軍記に財政改革を命じた。軍記はまず藩の財政を改善するため、御用商人に献金を依頼した。それまで商人が一手に担っていた藩の重要産物の売買を藩の専売とし、その利益を藩で吸い上げようとしたが、そのやり方に商人たちはこぞって反対した。
半兵衛もまた軍記に睨まれる。鰯締油、大豆など、二万両に相当する品物を船で江戸に運ぼうと準備していた時、他藩との交易禁止令を犯した罪で、積荷をすべて藩に没収・献上させられる。追い討ちをかけるように、御用金一万両(現在の6億円ほど)の上納を命ぜられる。なんとか六千両をかき集め献上したものの、残りの四千両が工面できない。来春までの猶予を願い出たものの聞き入れられず、半兵衛はとうとう拘禁され、家は取り潰しとなった。同じ時期に、一族3人にもそれぞれ二千両の献上が命ぜられたものの、やはり納めることはできず、財産をすべて没収され、武士の身分も失った。七崎屋半兵衛一族はすべてを失ったのだ。(金額については諸説あり)
このあとも、野村軍記は農民たちへの締め付けを強める。そして、農民たちは「稗(ひえ)三合一揆」で立ち上がることとなる。
農民は願書で「軍記は改革を立てに、裏で私腹を肥やし、利権を欲しいままにし、子どもも要職に付け藩政を牛耳っている」と批判し、21ケ条の改革(「稗三合一揆」の項を参照)を直訴した。2万人もの農民が蜂起したこの一揆では、藩の鉄砲衆は一発の弾を打つことなく、打ち壊し、暴力、流血を見ることがなかった。最後まで一揆の首謀者はわからず、農民に対する処罰もうやむやで、さらには軍記父子だけが責任を負わされ全てを失って失脚し、終焉することになる。
この野村軍記の失脚に七崎屋一族が関わっていたのではないかと、当時のことを記した「野沢蛍」に記述があるが真偽の程は定かではない。
七崎屋半兵衛とその一族、野村軍記父子のそれぞれの失脚については、諸説が伝わるが、富と権力を手にした者の「おごり」がもたらした、八戸藩の歴史上の大きな出来事である。
取材に応えてくれた方
滝尻侑貴(たきじりゆうき)/プロフィール
1986年生まれ。八戸に生まれる。駒澤大学・大学院で歴史を学んだ後、帰郷。八戸市史編纂室で『新編八戸市史』の編集などを経て、現在八戸市博物館学芸員。専門は北奥羽の中世史。
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取材と文
松原新一(まつばらしんいち)/プロフィール
69歳。はっちボランティアガイド。歴史が好きで、学生時代4年かけて日本一周史跡めぐりをした。退職後は地元の史跡をかけずり回り、地元のすばらしい史跡に驚く。知れば知るほど歴史っておもしろい。誰かに紹介せずにはいられない今日この頃。