No.74

南部家を支えた新田弥六郎直義

新田で生まれながら、八戸南部家を守るために、
女城主清心尼から家督を継いだ新田直義。
お家を守るために身を引いた男の生きざまとは。

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上田三蔵
取材・文 橋本淳一

 わしは、新田(にいだ)家11代政景(まさかげ)の嫡男として慶長7年(1602)新田(にいだ)城で生まれた。姓は新田、名を弥六郎直義(やろくろうなおよし)と申した。八戸南部家では、後継ぎが途絶えたとき、当主に新田家の嫡男を養子に迎えておった。憚(はばかり)ながら、わしもその一人で、その時より、八戸の性を名乗っておる。

八戸南部家20代直政様は、慶長19年(1614)、越後高田城の普請の帰途、急逝された。さらに葬儀後、後を追うように幼い嫡子久松(ひさまつ)様も亡くなられた。あの時は御家(おいえ)の断絶を覚悟したものだ。ご内儀の祢々(ねね)様は、叔父である本家利直(としなお)様に、御家の行く末を相談したところ、いとも簡単に祢々様の家督をお認めになった。これには皆驚いた。なにしろそれまで、おなごの城主など聞いたことがなかったからのぉ。
しばらくすると、祢々様に利直様の家臣、毛馬内(けまない)との縁談が持ち上がる。息がかりを婿養子に据え、八戸を思うようにしようとする下心が見え透いておった。祢々様は再三の要請を、「貞女は二夫にまみえず」とお断りになり、剃髪し「清心尼(せいしんに)」を名乗られた。意地もあったのであろう。
その後も利直様の策略が続く。おなご城主は、後継者が決まるまでの一時であることから、清心様は「八戸南部家に嫡子なきときは新田家から」という5代政長(まさなが)様の御遺志に従い、わしが養子となって家督となることを相談したが、利直様は、ご自分の四男をと反対された。だが、清心様は、三日三晩寝ずに直談判をなされ、やっと利直様より、わしが跡を継ぐお許しを得た。そしてわしが養子に入り千代子と祝言をあげ、元和7年(1621)、八戸南部22代当主となった。おなごながら、姑殿には真に感服する。この時、わしは何があっても御家を守ると心に誓ったのだ。
 しかし、利直様の策略は終わらなかった。寛永4年(1627)根城から遠野への国替えを命じられたのである。理由は、遠野の治安維持と伊達藩境の警護のためであった。その沙汰を受けるため城に呼び出された時は、わしが頷きもせぬうちに、利直様は領地替えの祝いだと杯をつきつけてきた。杯を返すことは主君への謀反となるので、しぶしぶ受けた。しかし、城に戻ると、家臣らは、利直様の度重なる仕打ちに、怒りが頂点に達し一触即発の状態になった。わしは、御家のためと説いたが、聞き入れられなかった。そこへ清心様が現れ、「憤懣やる方ない思いであろうが、利直は主君。主君に背けば、政実(まさざね)のように幕府のお取潰しにあうであろう。堪えるのじゃ。」と諫められた。遠野では、清心様のお力添えを頂戴し治安を回復した。その4年後の寛永8年(1631)、わしは利直様に呼ばれ、今度は盛岡城の城代家老となることを命じられた。遠野で勢力を増すと思ったのか、これまでの仕打ちへの償いだったのか、未だにわからぬ。
それにしても盛岡藩2代重直(しげなお)様には、ほとほと手を焼いた。参勤交代に遅参し、逼塞(ひっそく)(注)の罰を受け謹慎を命ぜられた。大きな声では言えぬが、遅参の理由は妾(めかけ)との諍(いさか)いであった。ほんと困ったお方だ。しかし、最も困ったのは、お世継ぎを決めずに亡くなったことだ。藩内は、重直様の弟、七戸城主重信(しげのぶ)様を擁立する派、徳川御三家の水戸家より養子を迎える派、そしてわしを擁立する派の3つに分かれた。このままでは御家が断絶されると考え、わしは自ら辞退し、重信様とその弟、直房(なおふさ)様をご推挙した。すると、幕府より、「藩を二分し、盛岡藩8万石を重信に、八戸藩2万石を直房に与える。」との裁定が下された。これで御家の存続が叶い安堵した。今は、「幕藩官僚制」の時となり、幕府重視の対応が肝要じゃ。
ああ、それにしても、直政様の訃報を伝える早馬が、新田城の雲雀(ひばり)坂を駆け上がったあの日から、何年経つかのぉ。もしあの早馬が来なければ、今頃わしは、新田で静かに暮らしていたであろう。新田は良い村じゃ。城より北を望むと眼下に田が広がり、秋には黄金色の稲穂が波打つ。それは、それは見事なものであった。そして、そこには、快活でよく稼ぐ百姓らがおった。懐かしいのぉ。しかし、わしは、根城、遠野そして盛岡へと移り住み、新田の百姓らに何もしてやれなかった。時は戻せぬと承知しているが、夢の中だけでも叶わぬものかのぉ・・・。

直義は、延宝3年(1675)1月30日、盛岡の屋敷で亡くなった。常に「御家の安泰」を考え南部家を支えた74年の生涯であった。


注)逼塞・・・武士に課せられる自由を奪う刑の一つで、屋敷の門に竹を交叉、封印し人の出入りを禁じる「閉門」より軽く、門を閉じず夜間の外出が許された。重直は、寛永13年(1636)4月から同14年12月まで、ほぼ2年間にわたり処分を受けた。



取材に応えてくれた方

上田三蔵(うえださんぞう)/プロフィール
1937年八戸市新井田に生まれる。昭和35年八戸市内の中学校教員に。採用後37年間にわたり教職を勤めた。元八戸市立大館中学校校長。平成9年に定年退職後、大館地区の歴史や民話の研究を始め、その実績を各種記念誌等に掲載する一方、講演等で広く紹介している。

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取材と文

橋本淳一(はしもとじゅんいち)/プロフィール
58歳。様々な講演を聞くこと。そして、そこで得た知識をあちこちでしゃべくり回ること。座右の銘は、「口は詐欺師で、心は弁護士」です。

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