No.60
「見えない力」が呼び戻した鳥居
大久喜の人々が毎日見つめている太平洋。
海の向こうから大津波で流された神社の鳥居が帰ってきた。
太平洋をはさんでつながっていた、人々の気持ち。
髙橋信行
取材・文 下斗米一哉
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八戸市の南東部に位置し、南は階上町、東は太平洋に面している南浜地域。大久喜はその中の一つの地区であるが、その大久喜の岩礁上に鎮座している神社が厳島神社である。
この神社には鳥居が3基あるが、2011年3月の東日本大震災で全て海に流された。そして流失から2年半後、約7000キロも離れたアメリカオレゴン州の海岸に2本の木材が漂着した。
そのうちの1本の木材の中央に取り付けられていた長方形の木札に、「昭和63年3月3日 高橋利巳」という文字が刻まれていた。この木材は、鳥居の一部である笠木であり、木札にある名前は鳥居の献納者であると内山さんは確信し、オレゴン州ポートランドにあるポートランド日本庭園に搬入され、保管された。この木札は、鳥居を建築した宮大工が木と木を組み合わせる特殊な技法により、笠木から外れないように施されていた。このおかげで、鳥居の献納者が明らかになったまま笠木はポートランドに辿り着けたのだ。
「内山さんがいなかったら、この鳥居は再建されなかったと思う。本当に感謝している。」そう話すのは大久喜に住む髙橋信行さん。信行さんは、大久喜漁業生産部会に入り、部会で鳥居再建のプロジェクトに奔走した中心人物である。そして内山さんとは、ポートランド日本庭園の学芸員の方。内山さんは、漂着した木材は鳥居の一部であると確信し、「高橋利巳」と言う名前を頼りに、ポートランドに居ながらにして鳥居があった場所の発見から鳥居の返還や再建まで大きな力になってくれた方である。
「内山さんは、持ち主発見のため、津波で被害の大きかった福島県や宮城県、そして岩手県の関係機関に問い合わせてくれたんですが、鳥居のあった場所は見つかりませんでした。ここまでで3ヶ月、いや、もっとかかったかもしれません。」と言う。「その後、八戸市も津波の被害があったということで、青森県の関係機関にも問い合わせをしている中で、八戸市博物館に行き着いたんです。たまたま電話に出た博物館の館長が、鳥居の献納者である高橋利巳さんを知っていたんです。」この時、この笠木を返還したいという内山さんの強い想いが日本に漂着した瞬間である。その後、様々な企業や団体の協力もあり、今では3基の鳥居が何事もなかったかのように、神々しく静かに大久喜の漁港を見守っている。
信行さんは、東日本大震災前は厳島神社のことを深く考えたことはなかったそうだが、このプロジェクトに関わったことで、何か「見えない力」というものがあるのではないかと考えるようになった。
流された笠木は、瓶に封じ込んだ手紙が海をたゆたいながら、どこかの岸に偶然漂着したようにも見える。しかし、海を見ながら生活している大久喜の人々の鳥居に込められた様々な想いのようなものが、遠い対岸に辿り着かせ、再建までの間にこれまで見ず知らずだった人たちを結びつけていったのかもしれない。これが「見えない力」なのではないだろうか。
取材に応えてくれた方
髙橋信行(たかはしのぶゆき)/プロフィール
1950年青森県八戸市生まれ。フェリーの航海士を定年退職した後、大久喜漁業生産部会に入り大久喜にある厳島神社の鳥居返還の受け入れ側の中心となってプロジェクトを牽引した。現在は、厳島神社の管理のほかに、大久喜法師浜漁業民俗保存会の会長職も務める。
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取材と文
下斗米一哉(しもとまいかずや)/プロフィール
八戸ポータルミュージアム副館長。八戸市の長者地区に住み、はっちに勤務する48歳の男です。趣味で走ります。走ってはいるのですが(最近さぼり気味ですが)、年々タイムが落ちています。確実に、そして着実に。自分の身体の衰えに自分の脳が追いついていない(すなわち、若い頃の走るイメージを捨て切れていない)という悩みを抱えている今日この頃です。