No.15

そして八戸に住みついた

さまざまな国の人たちが船から降り立った八戸の港。
ひょんなことから船で帰らず住み着いた人々がいる。
多様な人と文化を受容してきた八戸を、屋号から垣間見る。

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清水圭子
取材・文 長崎泰一

 あー!待ってくれ!!
 置いてかないでくれ!
 讃岐の国からやってきた交易船は、帆を風に張り、北に船首を向け、蝦夷の地へと出港していった。
 息を切らして走ってきた、17歳の少年は、その光景を眺め、呆然と立ち尽くしていた。
 少年を乗せた交易船は、前日、八戸浦に入港、他の乗組員とともに、荷揚げ、荷降ろしに精を出した。
 疲れを癒すため、鮫の街で飲み食いを楽しんだに違いない。翌朝の出港時間も忘れ、起床したころは、時すでに遅く、船は出てしまったのである。

 驚きの報は、すぐ少年の元に届いた。
 出港した交易船は、八戸浦からわずか先、泊の沖で、座礁沈没。
 多くの荷と乗組員は、深き水底へと沈んでしまったのであった。

 少年はたった一人の生き残りとなる。

 八戸浦に残った少年は、懸命に働き、しばらくして財を成す。屋号を讃岐屋と称し、一時は藩御用商人の鑑札(かんさつ)をもち、堅実な商いを続けたという。

 少年の子孫は、くじら騒動首謀者の一人清水庄吉であり、その庄吉の子孫が、現在の屋号『惣助(そうすけ)屋』こと、白銀にある壽浴場だ。

 実は、清水圭子さんへ、くじら騒動の取材をお願いしたときに出てきたエピソードである。
 壽浴場は、清水さんの実家である。
「うちのご先祖様、香川からやってきたんですよ。」
その一言から、ご先祖様の様々な話が続く。
 少年の名前の記録はなく、清水さんも伝え聞いてはいなかった。
 少年のルーツは、瀬戸内海の水軍であり、屋島合戦において、源氏に味方し勝利に導いた清水何某と、伝え残されている。

 くじら騒動に関係する人々を調べていくと、清水庄吉のように様々な土地からやってきた人々やその子孫が存在する。
 騒動の最高指導者といえる吉田契造(けいぞう)の先祖は、淡路島からやってきており、本家は淡路屋を名乗っていた。本家はすでに絶えてしまったが、一文字をもらった分家である、淡万、淡忠は、後に栄え、今も系譜は続いている。
 くじら騒動の後、漁民に酒を振舞った、陸奥男山・八仙の蔵元、駒井家は、近江屋を名乗り、始祖は近江からやってきている。
 くじら解体場誘致派の一人、長谷川藤次郎は、三重の生まれである。26歳で定住、揚繰網(あぐりあみ)の改良でイワシ漁を発展させ、八戸の水産業界に貢献した一人であった。くじら騒動の起きる前、イワシ漁はすでに不漁の兆しがあり、近代捕鯨を新たな産業として積極的に誘致した。そのため、騒動時には自身の家屋が襲撃を受け、破壊されている。

 屋号には名乗る人たちの素性がわかる、固有名詞が使われている。
 出身地名が屋号である場合は多く、先にあげた淡路屋、近江屋のほかに、河内屋、美濃屋、仙台屋などの地名を冠した屋号が存在している。
 明治、大正、昭和期と引き続き、移り住む人々は続いたが、彼らの時代になると、出身地を冠した屋号を持つことは少なかったようだ。
 住民たちは長きに渡り、この地にやってくる人々を受け入れてきた。移り住んだ人々は、新しい技術や情報を持ち込み、住民たちは仕事へ取り入れ、土地を繁栄させていく原動力となった。
 時には、それが原因となり対立が生まれ、没落していく移住者もいた。
 しかし、住民たちと融和し、この地の人となった者は多く、その証として、移住者たちが礎を築いた企業は、今日も先人の残した屋号を掲げ、八戸の経済を支え続けている。

取材に応えてくれた方

清水圭子(しみずけいこ))/プロフィール

1985年生まれ。白銀生まれ白銀育ち。「soop!」の代表。20代~30代の白銀町在住のメンバーが中心となり、地域住民とともに環境美化や「キャンドルナイト」などを企画し、自分達の住む白銀地域の面白さを引き出す活動をしている。現在は三沢でMisawa Night Hoppersを務める。

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取材と文

長崎泰一(ながさきたいち)/プロフィール

45歳。株式会社テクノル、まちぐみ220号。山岳渓流で毛ばりを振り振り。魚市場の前でのんびりソイを釣ったり、真冬の氷上でワカザギを釣ったりする。


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