No.36
好きこそ物の上手なれ
「本当に上手な人は相手を上達させることが上手」。
八戸のアイスホッケーを世界に羽ばたかせた功労者は、
輝かしい経験則ではなく謙虚な姿勢で教えることを選んだ。
志村俊壽
取材・文 三浦穂乃佳
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「氷都八戸」最近はそのイメージが定着しつつあるこの街。長根では世界大会招致も視野に入れた屋内スケート場の建設が始まり、八戸市を拠点に活動するアイスホッケーチーム、東北フリーブレイズが何度もアジア王者へと上り詰めるなど、八戸はますます氷都としての風格を帯びてきた。そこで私は、八戸の氷都としての歴史を語る上で、決して欠くことのできなかったであろう男性にお話を伺った。
その男性の名は、志村俊壽さん。男4人兄弟の末っ子に生まれる。八戸商業高校へ入学してからアイスホッケーを始める。めきめきと頭角を現し、卒業後は明治大学へ進学しチームの中心的な役割を担った。また、大学1年生から38歳まで国体へ連続出場した。社会人になると、この頃はまだ八戸ではアイスホッケーが普及していなかったこともあって、北海道の岩倉組というプロのホッケーチームでプレーすることになる。しかし、1980年代にホッケーチームが解散となり、その実力から他の強いチームからの引き合いもあったが、志村さんは八戸に戻り家業を手伝うことを決めた。
八戸に戻り家業を手伝っていたある時、友人から依頼を受けた。氷上を滑ることもままならないような人達を集めて遊びながらアイスホッケーをしている、その名も「ペンギンクラブ」というのがあるから教えてくれないかと。
「八戸のアイスホッケーはこんなレベルなのか・・・。」ずっとプロの世界にいた志村さんは素人のあまりの下手さに唖然とし、どこから何を教えたら良いのか戸惑ってしまったという。志村さん28歳の時である。しかし志村さんはこの話を私にしている時、真剣な眼差しでこう言った。
「僕は彼らを見捨てられなかった。本当に上手な人っていうのは、相手を上達させることができてこそ上手なんだ。」この言葉の根底にあった想いに私は心を動かされた。
志村さんは、このクラブのメンバーへ頭ごなしに自分のペースで教えるのではなく、楽しく上達できるようなメニューを組んで練習を重ねていった。素人チーム第1号であったこのクラブの活動が他のクラブをも刺激し、「青森県素人アイスホッケーリーグ」までできた。現在登録チームは約70もある。
志村さんがこのような思いをもった指導者となるきっかけは、明治大学アイスホッケー部へ入部した時の経験が大きい。1年生の時は、本当に辛かった。昔は今より上下関係が厳しく、先輩の命令は絶対。休む暇はなく毎日ヘトヘトだった。もう辞めたい。そう思う日も少なくなかったらしい。それでも志村さんがアイスホッケー部を辞めずに続けて来ることができたのには、ホッケーへの熱意の他に、4年生のある先輩の支えがあったという。その先輩は志村さんが辛い時に、決して見放すことなく励ましつつも、「お前が頑張っていることは分かっている。今踏んばればきっと楽になる。だから辞めるな。」と、続けることを勧めてくれた。この励ましのおかげもあって苦悩を乗り越え、遂に志村さんはキャプテンになった。
志村さんはキャプテンとしての威厳を保ちつつも、後輩の意見も聞き入れていった。あの苦しい思いは僕で最後にしたい。そう思いながら後輩の上達のために努力したという。
最後に志村さんはこのようなことを話した。「好きなことをしているのではななく、させてもらっているんだよ。そのことに感謝してプレーしていたらやめたいなんて言葉出てこなくなったんだよ。好きこそ物の上手なれってこと。」この言葉は志村さんを表していると思う。そして、八戸の人の良さに触れた気さえしたのだった。
取材に応えてくれた方
志村俊壽(しむらとしひさ)/プロフィール
1952年生まれ。小学生の時にアイスホッケーと出会う。それから65年、今もなおホッケーの虜です。きっと人生の終わりを迎える時には天国への階段をホッケー靴で上ると思う。スティックの持ち込みOKかは神様に要相談です。
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取材と文
三浦穂乃佳(みうらほのか)/プロフィール
八戸高校一年生。バドミントン部に所属しています。毎日学校で、友達と休み時間に話をするのが大好きです。私の尊敬する人はソフトバンクホークスの松田選手で、真っ直ぐに生きている姿が大好きです。私もそんな人になりたくて日々精進しています。