No.23

企業城下町 江陽地区

日東化学が生み、高度経済成長が育んだまち。
当時の日本を動かしていた一企業が彩った、
昭和時代の懐かしくうらやましいエピソード。

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田澤修
取材・文 下田智美

 「昭和30年代の日東化学で働く人のお給料は公務員の3倍。今から30年前に父親が亡くなったけれど、おれ、その給料に追いつかなかったよ。おかしくね?」
お給料というわかりやすい指針で、当時いかにその企業が儲かっていたのか、地域や人へ影響を与えていたのかを知る。
 田澤修さんのお父様は、日東化学に勤めていた。日東化学は、昭和12年に設立。昭和10年代、八戸市は新工業都市に指定され軍需企業が進出した時代だった。日出セメント、日本砂鉄、東北アルコールetc、その中のひとつが日東化学だ。当時、小学校の社会科の教科書にも掲載されるぐらい有名な企業の拠点がこの江陽地区にあった。
 軍需企業であった日東化学は戦争末期に空襲の標的となる。昭和12年に設立され、昭和14年から全面的な操業が開始された。しかし昭和20年7月14日、八戸は米軍の空襲にあい、軍需物資を生産していた日東化学の工場も狙われた。タンクが破壊され、直接触れると肌も溶かしてしまうほどの濃硫酸が流れ出る。当時工場で働いていた人の中には、この空襲による数名の死者も出た。日東化学は、軍需企業として始まり戦時中には空襲を受けながらもその後、平成10年に三菱レイヨンに吸収合併される。
 江陽地区といえば、今はラピアがありショッピングモール・住宅街のイメージが強い。今となっては想像が難しいが、かつてこの街は、軍需企業としての歴史を持ち合わせながら、漁業をやっている家族と日東化学の家族が半々いて、栄えていたエリアだった。「周りの子たちが履いているタンクツが羨ましかったなぁ」と当時を思い出して懐かしそうに笑う。タンクツとはゴムで出来ている靴で、長靴の足首らへんを切ったようなもの。水溜りを歩いたりと、何をしても水で洗えばすぐに汚れが取れたそうだ。当時田澤さんは、汚れが目立ってしまう白いバレーシューズのようなズックを履いていた。「汚すと怒られたからなあ、タンクツが欲しかったなあ」と振り返る。子供の頃はわからなかったが、タンクツの方が安く、手に入りやすいものだったらしい。
 また日東の社宅に住む家族は、大きなひとつの家族のような過ごし方をしていた。「日東アパートの中の敷地内でソフトボールができるからね。学年関係なく、子供たちだけで。」日東アパートのエリア内でひとつの街のようなコミュニティが生まれていた。そういった子供時代の話の中で驚いたのが、方言を話してはいけないという時代があったということだ。今とは真逆の風潮だと思うのだが、なぜか学校では方言を話したらダメというルールがあり、方言を話すと先生に告げ口をされたと田澤さんは言う。
 「嫁にやるなら、日東化学」。日東化学は江陽地区を中心に柏崎地区も合わせると、社員が約1000人、家族も含めると5000人の関係者が存在した。関連会社も含めると、相当な人数となる。かなりの地域の経済を動かす潤滑油であったと同時に、付近では工場から排気されるガスによって小中野ぜんそくという公害も生み出していた。
 企業が地域にもたらす影響力は、良くも悪くも、人々の心に残る日本の歴史となっていく。今は住宅地やショッピングセンターのイメージが強い江陽地区だが、数年前は日東化学という当時の日本を動かしていた企業と、地元の漁業関係者との生活が同居しているエリアだった。たったひとつの企業が、江陽地区というひとつの街を作った。この街の人々が働く日東化学は、戦前戦後の日本の歴史を作る原動力となった。そして、その時代の荒波の中で先人の時代からずっと変わらない漁業に携わる人々も共存してきた。この地区は、まさに戦中から戦後日本の縮図なのかもしれない。



取材に応えてくれた方

田澤修(たざわおさむ)/プロフィール
1955年八戸市類家生まれ。2歳ぐらいから小学6年生まで江陽地区で過ごす。父が日東化学工業に勤務し、日東の社宅で暮らす。社宅の子供たちは低学年~高学年までみんな仲が良く、よく社宅の敷地内でソフトボールをして遊んでいた。

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取材と文

下田智美(しもだともみ)/プロフィール
30代。岩手県洋野町生まれ、八戸市在住。会社員。好きなこともの→宝探し、まちあるき、公園、屋上、図書館、文房具、ライブ。

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