No.31

市川いちご物語

市川いちごが栽培されたきっかけは漁船の転覆だった。
親を失って困窮する子どもたちをいちご栽培で救いたい。
ある教師の思いが、寒冷の地に甘いいちごを実らせた。

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田村竹正
取材・文 高森栄子

 やませと呼ばれる涼しい海風に吹かれるここ、市川に八戸苺生産組合はある。多賀小学校の旧校舎の廃材で作ったと言う建物はどこか懐かしい感じがする。入ると優しそうな組合の田村竹正さんが座っている。なんともほっとする部屋で、市川の町と苺の繋がり、そして今、を話してくれた。

 市川は海が近く、昔からやませによる冷害凶作に悩まされてきた。農家だけでは食べていけず、北海道にニシン漁に出たり、出稼ぎにいかなければならなかった。
 昭和28年・・・。漁に出た22人の尊い命が、嵐の海に奪われた。漁の朝は早い。子供の寝顔を見ながら、最後の別れになると誰が想像できただろうか。親をなくした子供達にも将来の夢があって、親の背中を見て育つ、そんな毎日がおくれると信じていたのだ。幼い子供達が海を見つめて涙を流す。泣きながらでも生きていかなければならない。生活に困窮する遺族達の生活と子供達の悲しい叫びに、小学校の校長先生が
「このままではいけない」
と、立ち上がった。校長先生は、
「みんなで苺を作ろう」
と、地域の人々に呼びかけた。
 当時苺は北海道から漁に出た漁師がお土産に買ってきたのを食べた人がいたくらいで、食べた事のない人がほとんどだったと言う。
先生が呼びかけた所でなかなか動き出せるものではない。
「例えるなら、八戸でドラゴンフルーツを作ろうと言っているようなものだよ」
と、田村さんが当時を振り返る。
それでも懸命に説得を続ける先生の熱意に押され、市川苺の栽培が数名で立ち上がった。
 始めは露地栽培だったので、春にしか苺を収穫出来なかったと言う。しかし、転機が訪れる。70年代の水田転作である。これを機にビニールハウスで栽培を始め、転作田で面積を増やしていき、生産が軌道にのるまでになった。地の利もあった。苺は需要の高まる冬に最盛期を迎えるのだが、北国では冬が長い。すぐに暖かくなる西に比べて寒さの続く八戸では、長く美味しい苺が収穫できるのだ。その後も季節に合わせ酸味や甘さを研究し、考えられない位何度も何度もお客に合わせて苺の品種を変え、大切に守り、育て、市川と言えば『苺』と言われるまでになった。

 あの、3・11の時、海に近い市川地区は津波の被害が大きかった。辺り一面の土は塩をかぶり、沢山の流れついた瓦礫が折れ曲がったビニールハウスの骨組みにひっかかっている。そんな苺畑を前に、呆然と立ち尽くしていたに違いない。
「辞めた人はいなかったのですか?」
と聞くと
「ずっと何十年も苺を作ってきたからね。津波がきたからって、辞めないよ」
と、言う田村さんの言葉に重みを感じる。新しい土をいれ、ハウスを立て直し、翌年には再開出来たと言う。書けば一行だが、若い生産者が減り、年齢を重ねた農家の方にとってどれほどの苦労か。市川苺を守ってきたという誇りと、熱意が伝わってくる。
 八戸市も近年、八戸いちごのブランド化を推進するため、イベントを開き八戸いちごの普及に動き始めた。イベントは「美味しい」と「楽しい」であふれている。大粒の真っ赤な苺は自然と人を笑顔にさせる。キラキラした苺を見ながら
「苺はアシが早い。遠くから運べば味が落ちる。八戸の苺は獲ってすぐに食べられるから美味しいのです。幸せなことです。」
と、誰かが言っていたのを思い出す。あらためて、苺の葉の緑の鮮やかさと甘さが当たり前ではないことに気付く。

 苦難を何度も乗り越えてきた、海にほど近いここ市川地区で、苺の小さな白い花と甘い香りに包まれる季節が待ち遠しい。

取材に応えてくれた方

田村竹正(たむらたけまさ)/プロフィール
1961年生まれ。市川で生まれ育つ。八戸苺生産組合に勤めて約25年。いちご農家が入荷したいちごのサイズや硬さをチェックするなどの検査を行い、卸売市場への出荷作業を行っている。この仕事に携わってはいるが、高級なので普段はあまりいちごを食べない。

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取材と文

高森栄子(たかもりえいこ)/プロフィール
40代。二児の母。最近家庭菜園を始めて、少しずつ野菜の種類を増やすのを楽しんでいる。いつか、庭を作って園芸にも挑戦してみたい。


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