No.20

桃栗3年、柿8年、夫唱婦随が創った柿の木苑

盲目の夫とともに障がい者の授産施設を立ち上げた妻。
障がい者が本当に自立して生活できる社会を目指す
夫妻の思いは多くの人の心に響き、気持ちを動かした。

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豊山くに
取材・文 瀬川征吉

 平成の今は高齢化時代。我が身のことも思いながら、ふっと浮かんだのが、この人・根城地区に住む豊山くにさん。おん歳90歳。ご主人なき今、自宅で一人暮らしをしながら食事も、人の手を借りず自分でつくって生活している。
 そんな豊山さんの自宅に伺い話を聞いたのは、苑のシンボル柿の木に白雪がふりかかる初冬だった。笑顔まじりに迎えてくれたくにさん。着ていた柿の実のようなオレンジ色のトレーナーが若々しさを感じさせる。「孫ぁ着たのし」と目を細める。

 昭和59年(1984)12月。33年ほど前に身体障がい者の授産施設「柿の木苑」を、夫と共に立ち上げた。夫は盲目の俳人、豊山千蔭さん。くにさんが人生の後半、身体にハンディーがある人たちの福祉経営に関わりあったのは夫・千蔭さんが視力障がい者になったことも要因だ。それ故、施設をつくる前、2人で全国の福祉施設を見て回り、それを参考にして「柿の木苑」の建設に入った。

 「最初の頃の施設運営は、手探りの連続。特に通所者への月々の支払いにはしばらくの間、苦心しました。」と、くにさん。施設を始めるまでは、家庭夫人でもあったくにさんにとって、通ってくる苑生は、いわば身内の子供のようなもの。だから、時には施設で作った特産品を自分で買い上げても通所者には滞ることなく賃金の支払いは続けた。
 施設を始めた頃は売り上げが思うように上がらず、収入が少なかったために、自らの資産を削ってでも苑に通う人たちを守ろうと夫婦は頑張ったのである。責任感の強いくにさんは盲目の主人を抱えながらも、少しでも売り上げを伸ばすため、各所に出向き、涙ぐましいくらい製品の販売活動を続けた。その苦労が実り、少しずつ施設に明るい兆しが見え始める。それは正に「桃栗三年・柿八年」。時間のかかるものだった。
 また長い間、目の見えない千蔭さんの杖代わりとなり歩いたくにさん。こういう夫唱婦随、出歩きの光景を、ほのぼのした気持ちで見ていた市民も多い。だから2人が施設を発足させた時「おめでとう」と祝福した周囲の人も数知れない。ややもすれば障がい者に対し偏見が残っていた時代。それだけに、豊山夫妻の施設経営への進め方に社会啓発の意義を感じ、応援した人も相当数だった。

 最後に、くにさんに施設の今後について聞いた。くにさんは言う。
「障がい者の人格が尊重され、普通の社会人として生活できるようになってくれれば、それでいい。」また、「それが施設をつくった主人の気持ちにも添うことだと信じています。」

 この言葉を受けて、記者が思い出したのは千蔭さんが亡くなった時、葬儀に参列した人に配った200個をこえる記念品のこと。それはくにさんが一針一針に想いを込めて、一人で制作した手作りの巾着。この手づくり品に秘められた思いや願いが千羽鶴を織るような「祈り」や、皆の「幸せ」を生み出せるような時代になってほしい。

取材に応えてくれた方

豊山くに(とよやまくに)/プロフィール

1927年生まれ。旧八戸藩士湊一族。49才の時に豊山家にお嫁に来る。それまでは教師をしていた。盲目の夫・豊山千蔭と一緒に夫婦で支え合いながら授産施設「柿の木苑」を運営し、施設長を務めた。約35年、夫の杖代わりとして支える。

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取材と文

瀬川征吉(せがわせいきち)/プロフィール

72歳、週刊八戸編集長(市民ガイド八戸協会代表)。趣味は1.絵葉書の収集と絵葉書を作ること、2.近代八戸の新旧の街並の移り変わりを写真で記録すること、3.市民ガイドとして観光地八戸の歴史、文化などをお客様に紹介すること。


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