No.79

大久保が伝えてきた数々の風習

いい水に恵まれ、大昔から人が住み続けてきた大久保。
「おしらさま」や「ご蒼前さま」に守られながら、
馬たちや蛍たちと、ともに生きてきた人々の物語。

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藤田こと
取材・文 中上千壽子

 「大久保」という村は大きな窪地にある場所と言う意味からつけられた地名です。長い間住んでいても詳しく知らなかった大久保の風習や歴史について改めて藤田ことさんに聞いてみることにしました。
 金吹沢、野馬小屋、いずれも湧水(ラジューム水、ラドン)ですが、今は体の不調や衰えが気になる方にオススメといわれ、(冷泉を沸かし)温泉として利用されています。それが小川となり流れています。金吹沢の湧水は枯れても野馬小屋の湧水は枯れる事がないといわれ、この湧水を利用し、地域の有志の方々や老人クラブの方々が蛍の幼虫「やご」の世話から餌(かわにな)やりまで公民館を中心に、面倒を見てくれています。今では「蛍の里」として知られ、夏の夜を楽しませてくれる程になりました。
 昔は大久保地区には上大久保と下大久保があり、現在は7町内有ります。
 上大久保では、当家が藤田家の総本家になっています。総本家の役目の一つに「おしらさま」を遊ばせる行事があり、毎年、旧正月には(小正月=女の正月)親類、近所の婆様や嫁たち、女衆が集まり「おしらさま」遊びを続けていました。女性たちの楽しみでもありましたが、口寄せをしてくれた「いたこ」や集まった女性たちもそれぞれ高齢となり、このまま伝統が途絶えてしまう事は残念ですが、時代の流れでしょうね。
 遊ばせるとは、一対の「おしらさま」におせんたく(真新しい着物)を着飾らせます。「おしらさま」には頭部(巻頭衣)のあるものと無いもの2種類があり、いずれも芯となる棒には桑の木が使われます。(養蚕の神でもある)蚕は桑の葉を食べ成長します。
 おせんたくは毎年真新しいものを着重ねていくので、古い年代ほど下になります。おせんたくには動物柄を使わない(ご法度)あかるい色合いで3尺1寸の長さの物と決まっています。「一寸を通して祈る」から来ています。「いたこ」による遊ばせは最初に当主からはじまります。遊ばせ(占い)終わると上から2~3枚の所の布を1枚ずつはがして鋏を使わず手で細長く割き、頂いた女性たちはこの布を身につけたり、枕に挟んで1年間お守りとして大事にします。
 ここで「いたこ」は着飾られた「おしらさま」を両手に持ち、女性皆の前で「口寄せ」を行います。人数が多いので一日一杯かかり、終了後「いたこ」を囲み、遅い昼食をいただき世間話や農作物の占いなどの話で終了となります。
 日頃の忙しい生活から解放され、他愛もないおしゃべりで日がな一日楽しく過ごします。
 神棚に祀られているのは「ご蒼前さま」です。黒光りし年代を感じさせますが、これは「木の下まいり」をして「氣比神社=木の下神社」馬の神さま「ご蒼前さま」から戴いたものです。
 この南部地方では旧くは、一戸牧から九戸牧まで其々の牧(日本の古代において飼育や繁殖の為に馬を放牧しておく区域割り)があり、この近くでは妙の牧(蒼前平、岬台)が知られています。馬を飼育するには沢山の水が必要です。幸いな事にこの地域は金吹沢、野馬小屋、西小澤などの湧水に恵まれ、さらに石灰岩の台地からカルシウムをたっぷり含んだ牧草に育まれ、足腰のしっかりしたずんぐり、むっくりの南部駒が育成されました。またその頃は狼の生息も確認されており、水飲み場では仔馬が襲われた事もあったといわれ、三社の高台に見晴らし台があり、鉄砲で狼たちを追い払ったと伝えられます。
 この台地は隆起してできた為に貝殻の地層(カルシウム)も出ますが、殆どが砂地で造られ、井戸を掘り下げると崩れて水が枯れます。水の便が悪く沼田が少なく、米が主食で食物生活の糧であった時代、この地区の人々は八太郎や城下地区に田圃を買い求めました。
 農民の生活を守り、維持していく為に欠かせない大切な馬の存在は、農耕の神である「ご蒼前さま」「木の下まいり」に詣でる程です。当然水やエサを先に与えられ「お馬さま」として人から大事にされて来ました。「南部の曲がり家」など常に馬が見える場所に生活圏を設け、密接な関わりを持っていました。
 この事から一年を通して馬の生活と農作業を伝えるカレンダーのように「朳(えんぶり)」行事として昇華させたのでしょうか。「朳」の烏帽子は馬の形をしており、踊りは馬の姿を模倣したような振りです。今でこそ「国の重要無形民俗文化財」の指定を受けている「朳」ですが、当時は「旦那さま」の前で田植え唄をうたった子どもや、踊った子は、ご褒美をもらえた時代でした。大久保「朳」もそうした中、「長えんぶり」から動きの活発な「どうさいえんぶり」に所作を変えていきました。その所為(せい)でしょうか胸あての紋が糠塚と同じ「丸に梅鉢」なのです。今では七組の「御前朳」の一つに数えられています。
 藤田家には正月行事として2代前まで続けていた「田植え」踊りがあったそうです。嫁(現86歳)や孫(現77歳、75歳)が廊下に並び、手に稲苗に見立てた松の葉を持ち、年寄り婆さまが声高らかに田植え唄を歌い、田植えの仕草をして今年一年の豊作と何事もなくまた田植えができますようにと願ったそうです。それが終了して初めてお年玉をもらえました。他の地方には雪中田植えがあるようです。大久保朳の調査で享保19年、八戸藩用人所日記に正月15日に「田植え上がり御末にて」とあり「田植えはえんぶりのこととする論拠がない」とあります。はっきりした事は分からないが、田植えとは「朳」のはしりではないのかなと思います。私の住む上大久保地区では、ちょうど入口の所にかつて派出所があり、白銀中学校マラソン大会の折り返し地点になっていたそうです。こんな田舎に派出所とは思いますが、畑の作物が盗まれたりこそ泥が多かったので藤田一男さんが働きかけ、我が家で土地を無償で貸し、派出所を設置したそうです。
 また、ここには先住民、アイヌ民族が住んでいたと言われ、「蝦夷(えみし)井戸」があったとの事です。村人が伝染病にかかり亡くなると、家族がうつらない様に鉄鍋をかぶせ葬ったと言われていました。事実、水産高校のグランド整備の際、アイヌ人の人骨とその周囲から鉄鍋を被った遺骸が発掘されました。アイヌ人の習性が村人に伝わったのではないでしょうか。地名もアイヌ語からつけられている所も多く、先人の話と歴史はしっかりとつながっていて面白いな~と思います。
 今回は、藤田家総本家の藤田ことさんにお話を伺いました。今、休眠している「おしらさま」を遊ばせる行事も継続の危機にあります。「伝統や風習とは多かれ少なかれ何処まで守っていけるものなのか」時代の変遷とはいえ寂寥(せきりょう)を感じました。

取材に応えてくれた方

藤田こと(ふじたこと)/プロフィール
1951年生まれ。八戸市大久保在住。主婦(孫4人)。趣味は手芸(パッチワーク、裂織、レース編)、大久保地区の歴史調査、漬物、野菜作り、着付け、「女南部に生きる」女性史への参加。

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取材と文

中上千壽子(なかがみちずこ)/プロフィール
1948年生まれ。八戸市白銀町生まれ、同町育ち。八戸市公民館24館非常勤館長、女性第一号。実績:平成22年11月、優良公民館文部科学大臣賞 最優秀賞受賞。現在は青森県史編纂委員会委員を務める。


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