No.55

ケガジの苦しみの中から

幾たびも八戸を襲ってきた「飢渇」の苦しみ。
それを教訓として、次第に雑穀の作付けが広がり、
助け合う人の情けとともに、豊かな粉もの文化が育まれた。

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木村昌平
取材・文 大南久美子

 八戸の中心街からほど近い場所に位置しながら、喧騒を離れられるタイムスリップしたような町があります。
 そこは、糠塚。
 20数年前に北海道から私が嫁いできた土地でもあります。
 私の第2の故郷ともなったこの地は未だに迷路のように複雑な道も多く、狭くて余所者にはちょっとわかりにくい街並みです。
 この町の住人で、この町の歴史にとても詳しい木村昌平さんにお話を聴く機会があり、私自身もそれなりに長く住みながら知りえなかった長者という土地の歴史・風土を少し知ることができました。
 木村さんは、長者地区で生まれ80歳となった現在も長者地区で暮らす、生粋の「長者人」です。小さな頃から歴史に興味があり、中学生になると自転車で櫛引八幡宮や是川方面まで足を運んでいたそうです。
 もともと歴史好きでしたが、その関心が長者地区へと向かっていったのはこの長者地区で教諭になってからだそうです。「子どもたちに、自分が暮らす街を知ってほしい。誇りを持たせたい。」それには、まずは自分自身が暮らす「長者地区」のことを知らなければ、子どもたちの郷土愛を育むことはできないだろうと思ったからだそうです。
 長者地区の歴史の探求者として活動している木村さんの数々のお話の中でも興味深かったのは、〈天保の七年ケガジ(飢渇)〉のことです。
 どのようなケガジだったかというと、「冷害凶作」「ヤマセ・青立ち」「麦不作」「夏から秋の大雨洪水」「夏でも綿入れを着るほどの冷害大凶作」「疱瘡やチフスの流行」「春の水不足、夏の長雨冷害、洪水、大凶作」などと、ありとあらゆる記述があるそうです。
 7年もの長い間、苦しめられた飢饉とは想像を絶する悲惨な状況だったことでしょう。そんな時期の天保七年、こんなできごとがあったそうです。「夏でも綿入れを着るほどの冷害大凶作」だったこの年に、長者山下にある大慈寺16世「文要和尚」は、寺の裏門に3間と5間の「救い小屋」を造り、拍子木(木の板)を鳴らし、1日3回、一人一椀のひえ(雑穀)粥を苦しんでいる人々へ施していたというのです。この大慈寺の功績はとても大きく、どれだけ人々の救いとなり心の拠り所になったことかと思いました。
 木村さんは、社会治安の基本は「食べられること」「食べられないと、人は鬼にもなる」と話していました。ですから、子どもたちには、「飽食の現代、食べられることがいかに幸せか」を伝えているといいます。
 東北四大ケガジ「元禄・宝暦・天明・天保」のうち、長者の「山寺」には、元禄・天明・天保の餓死者を弔う3つの供養塔があるそうです。3つも揃っているのは、八戸市内では長者の山寺だけだそうです。木村さんは、長者地区がよほど飢饉との関わりが深く、救いの手を差し伸べたり、のちに供養をするなど、人の命を大事にした土地だったと推察しています。
 次に、先ほどの、文要和尚による「救い小屋」での施しのあった大慈寺には、時の家老「野村軍記」が眠っています。軍記は悪役として、百姓一揆の標的になった八戸藩の家老です。住民を救うために行った食料調査が仇となり農民の怒りを買い、他藩(秋田や新潟)からの食糧確保の手配もしていたにもかかわらず、その到着が遅れたりして、良い働きをしたにもかかわらず農民たちに憎まれ、農民たちは一揆を起こしたのです。「八戸藩主8代信真公」は、家臣たちの給料を半減したりして、住民も藩主も家臣もそれぞれの立場で犠牲を払い、耐え忍び、乗り越えたのだそうです。
 この苦しさを乗り越える歴史の舞台が長者地区でした。長者はすごい土地だと、木村さんは力を込めて話していました。
 東北四大ケガジ「元禄・宝暦・天明・天保」のうち、長者の「山寺」には、元禄・天明・天保の餓死者を弔う3つの供養塔があるそうです。3つも揃っているのは、八戸市内では長者の山寺だけだそうです。木村さんは、長者地区がよほど飢饉との関わりが深く、救いの手を差し伸べたり、のちに供養をするなど、人の命を大事にした土地だったと推察しています。
 次に、先ほどの、文要和尚による「救い小屋」での施しのあった大慈寺には、時の家老「野村軍記」が眠っています。軍記は悪役として、百姓一揆の標的になった八戸藩の家老です。住民を救うために行った食料調査が仇となり農民の怒りを買い、他藩(秋田や新潟)からの食糧確保の手配もしていたにもかかわらず、その到着が遅れたりして、良い働きをしたにもかかわらず農民たちに憎まれ、農民たちは一揆を起こしたのです。「八戸藩主8代信真公」は、家臣たちの給料を半減したりして、住民も藩主も家臣もそれぞれの立場で犠牲を払い、耐え忍び、乗り越えたのだそうです。
 この苦しさを乗り越える歴史の舞台が長者地区でした。長者はすごい土地だと、木村さんは力を込めて話していました。
 後に、冷害に強く栄養価も高いヒエ、アワ、キビ、そして蕎麦等の雑穀が生育され、この土地の重要な主食となりつつ、八戸地方の食文化に発展していく兆しになったそうです。
 米が実りにくいきびしい気候風土が育てたのは、「粉ものの文化」です。いまや八戸は、南部せんべい・カッケ・ひっつみ等々、コナモンの宝庫となっています。
 こんな時代背景や先人たちの苦労を経て作り上げられる食文化は、大切にしたい八戸の文化そのものだと思いました。
 木村さんは穏やかで丁寧な語り口で、迷路のような町の歴史を地政学的に、そして生業の歴史を通して、わかりやすく語ってくれました。
 木村さんから長者地区のお話を聴いた子ども達はきっと、大人になっても生まれ育ったまちの歴史を誇りに思い、未来のまちづくりや発展の糧にしていくことでしょう。

取材に応えてくれた方

木村昌平(きむらしょうへい)/プロフィール
1937年2月11日生まれ、八戸長者地区出身。南部町立平良崎小学校校長、八戸市立新井田小学校校長、八戸市立長者小学校校長を歴任。

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取材と文

大南久美子(おおみなみくみこ)/プロフィール
50代。趣味で写真を撮ることを楽しんでいます。『自分記録』の様な、自己満足度90%なカメラワークですが、被写体のあれこれが総てに息衝いて自分を活かしてくれるお陰で年齢不詳の生活を楽しんでいます。


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