No.17

ビニールとつくし先生

ひとりの男が持ち込んだビニールが八戸の農業を変えた。
川柳クラブのつくし先生が負けん気の強さで送ってきた、
「五・七・五」には収まりきれないユニークな人生。

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豊巻つくし
取材・文 佐々木彩子

 鴎盟大学川柳クラブの例会は、毎月第3水曜日に総合福祉会館で開かれている。毎回60代から80代までの男女50名程が出席する人気のクラブである。
 講師は豊巻つくし先生。八戸川柳社の会長、89歳である。しかし、先生の情熱的な講義は全く年齢を感じさせないのだ。
 川柳といえばサラリーマン川柳やシルバー川柳のイメージが強く、おもしろそうだと入部した私たちに、川柳の3大要素である「穿(うが)ち」「軽み」「笑い」について教えて下さった。川柳は人間そのものを描く文芸である。人生経験の多い世代だからこそ、読める句がある。という教えに励まされて「一読明快」誰が見てもわかる川柳を目指して、楽しくクラブ活動を続けている。
 2時間の例会の中でも特に人気なのが先生のユーモア溢れる雑談である。八戸の昔のころから、世界情勢、専門の農業問題までとても詳しい。新聞を読んで疑問に思ったところはすぐに調べるという。自分ではパソコンを使わないが、お孫さんに調べてもらうのだそうだ。まるで子どものようにいつも時間を忘れて夢中になってしまう。
 今を去ることおよそ80年前、長者小学校に在学していた頃のことだ。八戸小学校にじゃいごの学校と馬鹿にされるので、決着をつけようとゴムパッチを武器に戦った。勝負はつかなかったが、自分では勝ったと思っている。また、いつも喧嘩ばかりしている同級生がいて、担任の先生が呆れて教室で二人に決闘をさせたそうだ。負けた方が従うことと決め素手で戦った。体格が劣るつくし少年は勝負がつかないので耳たぶを齧(かじ)った。相手は大出血して先生に止められ父親が呼び出されたが、先生がやらせたのだからと呼出しに父親は応じなかった。この父にしてこの子あり闘争本能の強い子どもだった。
 夏は土橋川の田に引く為に堰き止めしたところで水泳をし、冬は現在の鍋久保の所にあった鍋山ゲレンデで父親が作ってくれた竹スキーでスキーを楽しんだ。
 旧制八戸中学に入学して、最初はビリに近い成績だったが、そのうち級長を任された。戦時下、英語の授業中に教会の牧師である先生がスパイ容疑で教室から憲兵に拉致された。その横暴の憲兵に反発して授業をボイコットして立て籠もったこともある。
 終戦の前年の昭和19年3月、中学3年の時に校長から推薦されて、思想家として有名な大川周明が所長を務める、目黒の東亜経済調査局付属研究所に入所。2年の修学期間で卒業後は海外に派遣されることになっていた。学費無料の寮生活で毎月5円の小遣いが支給されたが、ふた月毎に母親に送金した。インド班に配属になり、インド語、英語を学び、合気道の創始者である植芝盛平の厳しい稽古や相撲の稽古もあった。合気道では「心に鏡を持て。心の鏡を磨け」と教えられた。
 5時半の起床から22時の消灯まで、分刻みのスケジュールをこなす厳しい生活だったが、近くにドレメ女学院があり、巷では防空頭巾にモンペの時代にハイヒールにスカートの彩り豊かな若い女性が通っていて、見るたびに安らぎとほのかなときめきを感じていたという。
 やがて、修学中途で終戦になり、研修所は閉鎖されてしまった。しかし、今でも研究所での大川周明の教え「親切と正直」は人生の礎となっている。
 終戦により若き夢破れて八戸に帰った。復学したかったが家庭の事情でかなわなかった。戦時中の無理がたたって48歳で他界した父に代わり20歳に満たない年齢で家計を背負わなければならなかった。弟3人、妹2人、妹はまだ3歳と1歳だった。
 給料の高い所を探して仕事に就いた。得意な英語を生かして、宿舎建設会社明楽組(東京)に入社、高館や三沢の進駐軍で勤務した。昭和23年4月牛嶋商店に入社。昭和26年ゴム靴卸業牛嶋の営業社員として仙台のゴム会社に出張した時、塩化ビニールの広範囲利用の開発がおこなわれているのに気がついた。帰って会社に報告して、販売の取り扱いには賛同は得られなかったが、当時県の農業普及所にいた八中の先輩の正部家種康氏の後押しもあり、休暇を貰って自費で上京し、メーカーから研究材料のビニールシートの見本を提供してもらい、東北で初めて農家での試験を行った。東北の北の果ての八戸地区での試験はメーカーにとって有意義で宣伝効果抜群だった。
 八戸の当時の苗代は水苗代か油紙の折衷苗代であった。従来の苗代からビニールトンネルの畑苗代に変わっていった。ビニールを利用し屋根のある農業、ハウス栽培が始まり北国での冬の農業ができるようになった。その頃営業先で川柳と出会った。種屋(現在パセリー菜)の小泉紫峰さんが先生だった。それからというもの句帳を離したことがない。昭和43年に独立して豊巻ビニールを設立。生産農家と一緒に高品質の農作物を作るために頑張っている。
 昭和45年頃から始まった米の生産調整により、市川地区でビニールハウスでのいちご栽培が始まり、市川がいちごの一大産地になり、冬でも八戸のいちごが食べられるようになった。それも最初にビニールを導入したつくし先生の力があってのことだと思う。
 現在89歳の先生は、死ぬことは怖いという。今の時代ほとんどの人が病院で死ぬため、看取りの経験がない。人が死んでいくのを見たことのない人が多い。だから、簡単に人を刺したり殺したり自殺したりする、と嘆く。東京の空襲と疎開先の小平でのグラマンの機銃掃射で三度も死の洗礼を受けたが死亡だけは免れた。戦争は絶対にやってはいけない。死を身近に感じてきたからこそ、死というものが怖いと先生は思う。生きることの重さや尊さを先生は身をもって知っているのだ。
 つくし先生には、百歳まで生きて我々を引っ張っていって欲しいと切に願っている。



取材に応えてくれた方

豊巻つくし(とよまきつくし)/プロフィール
本名・敬一。1928年10月8日生まれ。豊巻ビニール株式会社会長、八戸川柳社会長。旧制八戸中学卒業後、昭和19年東亜経済調査局付属研究所入所。終戦後は(株)明楽組、夕張炭鉱住宅工事などを経て、(株)牛嶋商店入社、ビニール部を開設する。昭和43年同社を退社し、豊巻ビニール株式会社設立。

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取材と文

佐々木彩子(ささきさいこ)/プロフィール
昭和25年1月生まれ。海上自衛隊八戸航空基地で防衛事務官として勤務。退職後、はっちの開館時からボランティアガイドとなる。現在、さんぽマイスターデビューに向けて特訓中。

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