No.4

その紙は届いた

被災後の製紙工場から懸命に探し出された大きな白い紙。
八戸の高校生たちが、
その紙にしたためた復興への言葉とは。
1枚の白い紙とともに届けられた 八戸人の思いの物語。

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宮下勝俊 安藤豊
(三菱製紙のみなさん)
取材・文 河野秀清

 2011年3月11日、大津波は容赦なく製紙工場に流れ込んだ。 
 その日から、「この会社の紙を待っている人がいる」という思いから、懸命な復旧作業が始まった。そして、震災二カ月後に異例の速さで工場が再開された。
 製紙工場の安藤豊氏は、真っ白な大判の紙を、震災後に八戸東高校に届けた、その数年前のことを思い浮かべていた。
 八戸東高校から「書道パフォーマンスに使う真っ白な大きい紙が欲しい」という要望があった。「地域貢献」という方針のもと、工場より指示がだされ安藤氏は動いた。
幅5メートル、長さ10メートルの大きさの紙が必要であった。そのためには少し設備的な改造が必要であった。
更に、その紙にシワが入らないようにすることが必要であり、改造した設備の運転には工夫が必要だった。書道において紙のシワは致命的である。
 また、大判の紙は巻き取るときに、段ボールで出来た硬い管の、紙管というものに巻き付ける。
 その紙管というものに巻き付けて仕上げるのだが、その大判の紙は紙管に巻き付けようとすると、紙にシワが入って巻き付けられない。では、どのように巻きとるのか、そこで工場スタッフの力を借りて、試行錯誤の上、最終解決方法は、ヒトの力であった。震災後の復旧作業に忙しいスタッフが手を止めて紙の製造ラインに集まり、しわにならないように巻き取っていた。
 中央に紙管の入らない大判の巻き取りは、やわらかい。それをどのように学校まで運ぶか。傷はつけられない。安藤氏をはじめ、巻き方を手伝っていた多くの人達が悩んだ。結局はヒトの力で運ぶことになった。運ぶのに神経を使った。そして学校に届けられた。
 生徒たちが、初めて見る真っ白な大きな紙。自然と拍手が起こった。安藤氏は、その生徒たちの姿をしばらく眺めたのち、「ここまで、持ってこれた」その思いがこみ上げ心の底からほっとした。
 その時の感情が、震災後に受け取った指示書を手にしたとき、またこみ上げてきた。
 震災の被害で暗くなった地域を明るくするために、是非真っ白な大きい紙を届ける。その強い気持ちで紙を造り学校に届けた。
 届いた紙を見た生徒たちの顔は紅潮していた。「紙がきた」。紙を大事そうに運ぶ生徒たちの姿を見て、安藤氏は「よかった」。それ以上の気持ちを表せられなかったと述懐していた。
 安藤氏が運んだ真っ白な大きな紙に真黒な墨が入った「ガンバレ 立ち上がれ八戸」「勇気」「不死鳥のごとく翔け」どれも元気づける書体であった。
 自分たちが造ったあの白い紙の上に、真黒な字体が、活き活きと躍動している。
その動きを感慨深げにじっと見守る人がいた。
八戸東高校の書のパフォーマンスは、震災後多くの人に感動を与えた。

取材に応えてくれた方

安藤豊(あんどうゆたか)/プロフィール

1949年八戸生まれ。今年の目標→年4回、1泊2日の仲間との温泉を楽しむ。ホンダZ50J整備中、5月末までに完了(動くかな)。週末ツーリングを楽しむ、1日走行88~150キロ。40年近く続けてきた城下山車製作、年齢を考慮して楽しくお手伝い。

宮下勝俊(みやしたかつとし)/プロフィール

1956年むつ市生まれ。1975年から八戸市に移り住み、昨年還暦を迎えた。趣味はゴルフに野球。野球はプレーヤーではなく、裏方で青森県チームが都市対抗野球大会へ出場できるよう願っている。今年も開幕間近。

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取材と文

河野秀清(こうのひできよ)/プロフィール

昭和20年11月、兵庫県生まれ。モットーは「やってみなはれ!」やってみないとわからない。だめでもともと。文章を読む、文章を作るのは大好き。昔は北杜夫を好んで読んだ。


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